少年マンガと父殺し 『新しい声を聞くぼくたち』

河野真太郎の『新しい声を聞くぼくたち』を読みました。以前、群像で片岡大右「『鬼滅の刃』とエンパシーの帝国」を読んでマンガってこんな読み方ができるのかと驚き、いまどきのマンガ評論をもっと知りたくなったので。

期待通りにとても面白い評論集でした。
とくにジブリのヒロインとディズニープリンセスメリトクラシーについての部分が鋭くて考えさせられます。昔の白雪姫は箒とハタキもって歌っていれば良かったけど、いまどきのヒロインはいきいきと能力発揮しないといけないから大変よね。

そして、ああそうだったのかと思ったのが『鬼滅の刃』がどういうタイプの成長物語なのか解説した部分。

炭治郎の「成長」は父殺しによる成長ではありません。その正反対で、父を受け継ぎ、家族をつないでいくことが彼の成長なのです。もちろんこれまで、『少年ジャンプ』における成長物語のすべてが「父殺し」系統の物語だったわけではありません。
『新しい声を聞くぼくたち』河野 真太郎(講談社

そうか、そうだったのか、「すべてが「父殺し」系統の物語だったわけではありません」ってことはかなり多くの少年マンガの成長物語は「父殺し」系統なのですね。
自分が『ゴールデンカムイ』で頻繁に起こる父殺しにあれほどショックを受けたのは、少年マンガの作法を知らなかったせいだったんか。少年マンガを熟知している読者には別に衝撃でもなんでもないのでしょうか。

そういえば最近どこかで男性作家の「「父殺し」のマンガはあるけど「母殺し」はあまりない」という文章を読んで「え、「母殺し」って少女マンガにおける巨大テーマじゃないの?」と驚いたのを思い出しました。女性は家庭の天使を殺したり、内なるマギー・サッチャーを殺したり、成長のためにいろんな女性を殺すのに忙しいのだが、男性にはそれは知られていないのでしょう。


もう一つとても勉強になったのが、『怪獣8号』の批評。主人公日比野カフカミソジニー的なポジションにあるにも関わらず、有能な女性に対する憎悪に走らない理由について。


ですが、ここでは彼がなぜそうせずに済んでいるのかということが重要です。なぜ彼はジョーカーにならずに済んでいるのでしょうか。
そこには二つの理由があります。一つは、『怪獣8号』はそのようなジャンルの作品ではない、ということです。ずるいことを言っていると思われるでしょうか?そうではありません。本書ではこのような発想法をくり返していきますが、物語作品には常にジャンル的限界があり、ある種のジャンルでは決して表現できない「ジャンルの無意識」のようなものがあるのです。


少年マンガを読んでいると、この媒体では絶対に語れない事象があるんだなあと思わされる。『ゴールデンカムイ』を始めて読んだころ分からなくてすごく悩んださまざまな事柄も、少年マンガというジャンルに対する違和感が理由だったと思います。
逆に少女マンガに慣れている読者には当然のお約束も、少年マンガ読者層が見たら「なぜ〇〇について書かれているのに△△は絶対に出てこないのか?」と違和感を感じるのでしょうね。

明日はいよいよ『ゴールデンカムイ』最終巻の発売なので、心の準備をしながら待っています。