『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダー・フェミニズム批評入門』

『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダーフェミニズム批評入門』(北村紗衣/文藝春秋)を読みました。相変わらず隅から隅まで面白い。いつもこの著者の本にとても救われているのですが、今回とくに救われたというか、救われなかった部分。

スター・ウォーズ』についての論考で、

私が『スカイウォーカーの夜明け』を見てしばらく研究ができないくらい落ち込んだのは、こんな作品になったのはファンダムのせいだ、と考えているからだ。(略)しかしながら、私は鑑賞直後から、このフランチャイズがこんなことになったのはファンダムのせいだと思った。

私たちは帝国だったんだけど、とはいえ私はストームトルーパーにすらなれないかもしれない――『スター・ウォーズ』とファンガール

 

とあって、自分がドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の最終シリーズを見て「このドラマをこんなにしてしまったのは自分のせいなのか?」とすごく落ち込んだことを思い出しました。

第5シーズンあたりから「良くない方向へ進んでいるんじゃないか」と不安だったドラマだけど、第8シーズンがついにあんなことになってしまったのは、きらびやかな画面や飛び交うドラゴンの恰好よさばかり欲しがったファンのせいなのだろうか・・・と苦しんだ記憶がよみがえった。
大ヒットしてファンが増えると、その大量のファンを喜ばせようとしてかえって迷走してしまうというのは、どのジャンルにもあることなのでしょうか。

それとは別にこの本を読んで痛感したのは、自分は帝国主義に反対の立場なのですが、にも関わらず帝国SFにとても魅かれてしまう。帝国SFを読むときはあまり溺れすぎないように気を引き締め、ストームトルーパーに堕することなきようよくよく留意しなければと思いました。


そして、映画『マリー・アントワネット』の批評に膝を打ちました。

それなのに、この映画はあまり歴史映画らしくない。その大きな理由は意識的にいろいろなものを描かないようにしているからだ。フィクションの歴史叙述で重要なのは、何を描いているか以上にむしろ何を省いているかだ。描かれなかったものにこそ、作品のメッセージが潜んでいる。

不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの

 

フィクションの歴史叙述では「何を描いているか以上にむしろ何を省いているか」が重要という指摘にハッとしました。
今年すごくはまって何度も読み返したマンガ『ゴールデンカムイ』ですが、「なぜアレやアレが描かれていないのだろう」と疑問に思うことが多かった。
最初はうっかり忘れてるのかなとも考えたのですが、最終巻の最後ページの鶴見の加筆で、忘れていたのではなく、意図的に描かなかったのだと気づいたのです。

ゴールデンカムイ』については、おそらく自分に理由が分かる日はこないだろうし、追及する気もないけど、今後は「何を省くか」も作者の主張の重要な部分なのだということを常に頭の隅に置きながらフィクションを楽しもうと決意しました。

 

いろんな作品の評論が読めて、さらに自分の各種記憶も呼び覚まされる、一冊で多方面に楽しめる本です。