辮髪ホームズの元ネタ《越南譯員》

莫理斯の《香江神探福邇,字摩斯》(日本語訳『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』 舩山むつみ訳)(以降《福邇》と省略)の本家ホームズの元ネタを探求します。
シャーロック・ホームズの中国語版タイトルはウィキペディア台湾を参考にしています。

ーーーーネタバレしていますーーーー

■《越南譯員》
今回の元ネタはタイトル「ベトナム語通訳」を一目見ただけで"The Greek Interpreter"(『ギリシャ語通訳』/《希臘語譯員》)と推理できます。
が、依頼人(被害者)が二人登場するので、二つの作品を同時パスティーシュしていると思われます。しかしもう一つが何か分からない。

■安南
ベトナムの中国語名は清朝以前は安南だったのですね。越南に替わった事情を福邇が説明してくれて勉強になる。

 福邇也搭口說:「不錯。嘉慶年間,先帝冊封當地阮氏王朝時,已將國號由『安南』改為『越南』,如今若仍使用舊稱,當地人多視之為不敬。」---《香江神探福邇,字摩斯》

■檳城
依頼者が「檳城師爺」と呼ばれるステッキを持っているので南洋華僑と推理する福邇。
ペナンの中国語名が「檳城」だと初めて知りました。ビンロウの木が多かったので「檳榔嶼」と呼んだのが起源だそうです。

■陳文禮
本家ホームズのMelas(メラス/梅拉斯)。文禮の広東語読みがman4lai5(まんらい)なので発音がやや近い?

■阮偉圖
誘拐されたのは陳文禮と一緒にベトナムから香港へ来た戦艦技師の阮偉圖。
元ネタが分からないのですが、技術者が誘拐されるThe Adventure of the Engineer's Thumb(『技師の親指』/《工程師拇指探案》)かなと推測します。
『技師の親指』の依頼人はVictor Hatherley(ヴィクター・ハザリー/維克多·海瑟里)偉圖の広東語読みはwai5tou4(わいとう)、ヴィクターに似てる・・・だろうか?正解が知りたい・・・

■漢奸
ベトナム華僑たちがフランスのために働いていると聞いた華笙は「売国奴!」と罵ります。華笙は愛国心が強く視野が狭く19世紀の中国人らしくてとても良い。「法蘭西鬼」という罵倒がなんだか優雅なのもおフランスらしくて良い。

「你們身為中國人,居然還去為法蘭西鬼做事,為虎作倀,究竟知不知道羞恥?福兄,不要幫這些漢奸!」

売国奴呼ばわりされた陳文禮も黙って罵られてはいない。ベトナム華僑は清の臣民ではなく生まれた時からフランスに統治されている。清がベトナムのために何かしてくれたことがあったか?そういう自分は愛国者なのに、どうして香港に住んでイギリス人に統治されているんだ?と糾弾する。

「甚麼叫漢奸?我和偉圖是越南華僑,可不是大清國民。我出生之時西貢已經由法國人管治,在這之前,清朝有照顧過我們的上代嗎?你這麼愛國,為甚麼又要住在香港,受英國人統治?」 

ここでまあまあと割って入る福邇。本家と違って、すぐカッとなる武闘派ワトソンを世慣れた社交上手のホームズがなだめる構図で面白い。

■九龍灣
阮偉圖は自力で戻ってくるが、今度は陳文禮が誘拐されてしまう。黒幕は翰林大人という人物らしい。
福邇は懇意にしている香港警察の昆士に九龍灣を探してみると告げる。このころ九龍半島は清の領土だったので、すぐにピンとくる昆士。
置いてけぼりの読者と華笙。

■黃墨洲
翰林大人とアポを取るため黃墨洲という裏社会のボスを訪ねる福華両人。
黃墨洲は『九龍城寨の歴史』(著者魯金・訳者倉田明子)にも登場する清朝の大物スパイ。福邇が脅迫のネタに使ったのは密貿易の証拠だったのでしょうか。

■翰林大人
黒幕の「翰林院侍讀學士」は從四品で「總理衙門章京」を兼務している。
「侍讀學士」は從四品で史料編纂が仕事。
「總理衙門」(總理各国事務衙門)は清末に設けられた外交部門、「章京」(将軍の転訛)は武官の役職で四品の文官も就ける。《福邇》では九龍城寨に駐在してイギリスとの折衝をしていたようです。

■福邁,字皋德
本家ホームズのMycroft Holmes(マイクロフト・ホームズ/邁克羅夫特·福爾摩斯)。本家マイクロフトは『ギリシャ語通訳』で初登場するので予想してしかるべきでしたが、あまりに意表を突かれてびっくりした。
本家では高級官僚というだけで具体的な組織名は記されていないと思う。少なくともMI6とかではなさそう。《福邇》では表向きは外交活動、裏ではスパイを使った工作を行っているようです。むしろBBCドラマSHERLOCK(シャーロック)』のマイクロフトを思わせる役柄。

他略為一頓,又道:「這幾年來承蒙你照顧舍弟。」
他似乎有點疚愧,道:「這位正是家兄。」

はにかむ福邇が可愛すぎる。

「舍弟」は自分の弟、「家兄」は兄の謙称。古代では自分の家族に「家」や「舍」をつけて謙譲を表した。
「舍弟」の用法は魏の文帝の「舍弟子建」が最も古いようです。

本家ホームズでマイクロフト・ホームズは『ブルースパーティントン設計書』にも登場する。潜水艦が出てくるし、今回の元ネタは『ブルースパーティントン』なのだろうか?分からない。

 

■九龍砦城
本家ホームズのディオゲネス・クラブ(笑)

 

福邁は弟に一緒に北京へ戻って国家のために尽くそうと諭すが、福邇は香港から離れる気はない。
福邇の教育や留学には国費も使われてるだろうし、清の官僚として働くのが筋だと思うのですが、そのへんは大丈夫なのか?職業選択の自由はあったのか?

《福邇》の魅力は、中国各地や東南アジア各国から香港へ流れ込んできた華人が引き起こすドラマにあります。
ホームズのロンドンも大英帝国の植民地やヨーロッパからの移民を惹きつけていたが、帝国の東の端にある香港が西の果てのロンドンと対になっているところが興味深く、作者の目の付け所の上手さに感銘を受けます。